老いも若きも。
男も女も。
関わるすべての人たちの胸に深く刻まれた「無念」。
前回は、鎌倉時代より400年以上にわたって、豊前国一帯(福岡県東部、大分県の一部)を所領としていた「宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)」謀殺の「無念」の物語をご紹介した。
天才軍師とうたわれた「黒田孝高」と「長政」父子によって滅ぼされた「宇都宮鎮房」と家臣たち。彼らの足跡を辿り、大分県中津市にある「中津城」と赤壁寺(あかかべでら)とも呼ばれる「合元寺(ごうがんじ)」を取材。
だが、これで終わりではないと。
この物語は、そして取材はまだ続くのだと。
そう書いて、前回の記事を締めくくったのである。
▼前編はこちら。
赤い壁に無念の叫びが聞こえるか。大分県合元寺に宇都宮鎮房らの足跡を追う
宇都宮氏一族について語るのであれば。
他にも行くべき場所はある。
大分県、そして福岡県の2県をまたぐ3つの神社。
──「城井(きい)神社」「扇城(せんじょう)神社」「宇賀貴船神社」
なぜ、その神社に行かなければならないのか。
それは、彼らの「無念」が、これで終わったワケではないからだ。
黒田父子と和議を結ぶ上で、人質となった宇都宮鎮房の息子と娘。
一体、彼らはどうなったのか。
もう1つの宇都宮氏一族の悲劇。
そんな知られざる「無念」の物語を紡ぐために。
とある場所へと再び舞い戻ったのである。
※本記事の神社の写真は、すべて許可を得て撮影しています
※本記事は「宇都宮鎮房」「黒田孝高」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
2つの神社が建てられた意外な場所
中津城と合元寺の取材を終え、今度は3つの神社に向かう道中でのこと。
「あれ?」
カメラマンが立ち止まる。
「また中津城に近付いてない?」
そういえば。
カメラマンには、次の写真撮影の場所は宇都宮氏一族関連の神社としか説明していなかったコトを思い出した。それがね……と場所の詳細情報を伝える前に、中津城付近に到着。
「えっ?」
そう、確かに。
「えっ?」である。
彼のご指摘通り、再びの「中津城」である。
ただ、今度は少し違う。
堀の外側ではなく、内側だ。
階段を上がって堀を越えると、見事な藤棚が出迎えてくれた。
コチラの中津城。
かつて城内だった場所には、神社や西南戦争関連の石碑などがあり、現在は公園まで整備されている。特に、神社に関しては1つではない。今では5つの神社が集まっており、その周りに木々が立ち並んでいた。その様子はちょっとした森のようだ。
さて、ここでのお目当ての神社は2つ。
「城井神社」と「扇城神社」だ。
誰をお祀りしているのかといえば。
なんと、黒田父子が滅ぼした「宇都宮鎮房」と、その「家臣ら45人」である。
ふむ。
御祭神は宇都宮鎮房とその家臣たち。
それも、謀殺の現場付近でお祀りされているとは。
つい、その後に何かマズいことでも起こったのではと勘繰るじゃないか。
疑惑の目を向けながら、森の中を進む。
ほどなくして左手に案内板が見えてきた。
「城井神社」の御祭神が「宇都宮鎮房」。
そして、「扇城神社」の御祭神が「家臣ら45人」。
やはり、この2つの神社はセットなのか。
確かに、主君を守り切れなかった家臣らの無念を考えれば、せめて神社の場所くらいは近くにしてほしい。
だが、実際に2つの神社を目にして驚いた。
近いどころではない。
まさか「城井神社」の境内に、家臣たちを祀った「扇城神社」があるとは思わなかった。ちょうど主君である宇都宮鎮房に寄り添うような位置である。
さて、コチラの神社云々の話をする前に。
そもそも宇都宮鎮房は、謀殺されたのち、どのようにして埋葬されたのか。
じつは、様々な書物で触れられてはいるのだが、統一性がなく確証がない。
それらの内容を比較した渡辺晴見著『豊前地方誌』によると。
『中津興廃記』や『宇都宮世譜』などには、鎮房の遺体は中津城旧西門の脇に葬られたという記述がある。なんなら『宇都宮記』では、遺体を移動しようとしたが動かなくなったため、中津城内に埋めたとされている。
あれま。
以前にも遺体……というか、討ち取られた「首」が動かなくなったという話を書いた気がするのだが。あれは確か、島津氏に討たれた龍造寺隆信だったはず。やはり「無念」の最期を遂げた者は、遺体が動かなくなるものなのだろうか。
とかく真偽は別にして。
宇都宮鎮房は、中津城旧西門付近に埋められた可能性が高そうだ。
なお、『中津記』にはその様子が書かれている。「二、三尺(六十~九十センチ)の高さに、土を冠して石垣を築てありし」となっていることから、簡易な石垣土円墳として埋葬されたようだ。その後、石の祠が建てられたという。
だが、その3年後。
松山譲著『城井・宇都宮氏の滅亡 : 黒田藩外史』によると、謀殺した本人である黒田長政が「感ずるところあって」、天正19(1591)年9月に石の祠の場所に「社」を建てたという。そして宇都宮鎮房を「城井大明神(紀府大明神)」として、中津城の守護神とした。
その後、長政は中津城を離れ、福岡城へ。
慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」の論功行賞で、筑前(福岡県)に所領を与えられたのだ。ただ、その際にも、長政は宇都宮鎮房の分霊を福岡へ勧請し、警固神社(けごじんじゃ)内に祀ったとされている。つまり、中津城を離れてもなお、黒田長政は宇都宮鎮房を祀ることにしたようだ。
それでは、中津城の「城井大明神」は、その後どうなったのか。
じつは、中津城には黒田氏の次に細川氏、そして小笠原氏が入城している。なかでも、中津藩小笠原家4代藩主の小笠原長円(ながのぶ)は「城井大明神」を「城井大権現」と改め、例年、祭祀を執り行うことを決めた。小笠原氏の次に中津城に入城した奥平氏も同様だ。城井神社を崇拝し、4月20日に例大祭を執り行っていたという。
だが、江戸時代が終わり、世の中は大きく変わる。
城井神社も、奥平氏が中津城を去ったために荒廃。明治時代には、例大祭もなくなってしまう。
その後、大正8(1919)年、城井神社が神社明細帳に再登録され、ようやく再興へ。翌年の4月には、現在の場所に御社殿が落成。例大祭も復活した。現在も旧暦の4月20日、宇都宮鎮房の命日には例大祭が執り行われているという。
一方で。
宇都宮鎮房の家臣らは、どのようにして埋葬されたのか。
じつは、彼らの場合、亡くなった場所がそれぞれ異なるため、埋葬場所も1ヵ所ではない。
中津城内で討ち死にした家臣らは、城内に埋葬。宇都宮鎮房のそばにいた「松田小吉」は、黒田勢を斬りまくって、最後は「京町筋」で果てたといわれている。その京町には「小吉稲荷大明神の」祠が建てられ、そこで祀られていたようだ。
また「野田新助」と「吉岡八太夫」は深手を負いながらも広運寺(福岡県吉富町)まで辿り着き、追腹(諸説あり、他に16人がいたとも)。2人は同寺で埋葬され墓もあるという。彼らに対しては、のちに小笠原長円により広運寺に稲荷大明神が勧請されている。
こうしてそれぞれの場所で祀られていた家臣らも、大正9(1920)年、城井神社の末社となった扇城神社で合祀。
ようやく彼らは揃って、主君のそばで祀られることとなったのである。
そんな彼らの名前が、扇城神社で確認できる。
御祭神は45柱。
主君である宇都宮鎮房のために壮絶な死を遂げた45人の家臣である。
つい無頓着に、彼らを「家臣たち」とまとめてしまうことが多い。
だが、実際に45人の名前を見ると。
彼らは実在の人物であり、それぞれに大切な人がいた。1人1人、かけがえのない人生があったことに思い至る。
と、同時に。
いかに戦国の世で生き延びることが難しかったのか。
今更ながら、改めて「乱世」といわれる意味を痛感した。
それにしても、である。
先ほどから、喉の奥に魚の骨が刺さったような強烈な違和感。
自分でも何が気になるのかと思えば。
黒田氏、小笠原氏、奥平氏揃って。彼らが一様に「宇都宮鎮房」を御祭神として特別にお祀りする理由である。
確かに、鎮房が無念な最期を遂げたコトを思えば、別段、奇異に感じなくもない。滅ぼした側の長政に至っては、至極当然のような気もする。
だが、その後、中津城に入城した小笠原氏、奥平氏。
なかでも「城井大権現」として「社」を建て、例大祭を調え、家臣らに対しても配慮した小笠原長円。彼の行動は、ある意味、不自然だ。
一体、何が彼をそこまで駆り立てたのだろうか。
昔の「城井神社沿革」の説明の中に、気になる箇所がある。一部抜粋しよう。
さて其後に於て、霊威顕著なる事の屢(しばしば)なりければ、長政深く、宇都宮家累代に於ける治国安民の功績を鑒(かんが)み、…(中略)…大いに肝銘する所ありて、公の墓所に社を立、その霊を鎮斉して城井大明神と称し……
(玉江彦太郎著『宇都宮落城記 (美夜古郷土叢書 ; 第1輯)』より一部抜粋)
寛永九年冬、小笠原信濃守長次、中津入城也、黒田家の遺例に因て祭られ、宝永二年、城主小笠原長円、また大に感する所ありて、社号を城井大権現と改め祭祀の礼士気を定められ、
(同上より一部抜粋)
まず「霊威が顕著」って、どういうコトだ。
やはり宇都宮鎮房の無念と関係する出来事が起きたのだろうか。
何より、黒田氏と小笠原氏は「大いに感するところがあって」という同じような理由で、宇都宮氏一族の慰霊を行っている。
一体、彼らは「何を」感じたというのか。
その謎を解く神社が福岡県にあるという。
その名も「宇賀貴船神社」。
ここでようやく、3つ目の神社のご登場となるのである。
無念が怨念に変わった?「大蛇の怪」
宇都宮氏一族の無念の物語。
その最後の取材場所は、福岡県吉富町にある「宇賀貴船神社」。
コチラの神社。
福岡県にあるからといって、遠いワケではない。
先ほどの「城井神社」「扇城神社」から歩くこと15分。
中津城の横を流れる「山国川」を渡ってすぐ右手に折れ、堤防沿いを歩く。すると、暫くして宇賀貴船神社の裏側に到着。
じつは、ちょうど大分県と福岡県の県境を流れているのが山国川である。つまり、この川を渡れば県境を越えて、福岡県となるのだ。
正面に回り、一礼してから鳥居をくぐる。
小さな神社だ。宮司は近くの神社と兼任されているとのこと。
元は「宇賀神社」だったが、明治時代に入って、近くにあった貴船神社と合祀され「宇賀貴船神社」となったそうだ。
宇賀という名前がつくというコトは、宇賀神(うがじん)が関係するのか。以前、取材先の寺で宇賀神様の秘像を拝見したが、とぐろを巻いた姿に翁の顔というインパクト強めのビジュアルであった。それもあってか、私の中で「蛇神様」というイメージが定着してしまった。
ただ、今のところ蛇を連想するような雰囲気はない。
心静かに、目の前のご本殿にお参りする。
至ってフツーの神社である。
それにしても、コチラの御祭神は……と、吉富町教育委員会が設置した説明版を見て絶句。
元禄15年(1705)、この塚から両足が有る大蛇が這い出し……(中略)……鶴姫の塚に埋葬し、小社を建て宇賀神として祀りました。……(中略)……塚から這い出した大蛇を鶴姫の化身として宇賀神と称して祀ったと考えられます。
(宇賀貴船神社の説明版より一部抜粋)
まず、最初に驚いたのが、本殿ではなく隣にある「石の祠(ほこら)」がメインだというコト。
なんでも「宇賀神社の石祠(せきし)」として、吉富町の有形文化財に指定されているとか。
今は木々が生い茂って分かりにくいが。
よく見ると、本殿の左手に石柱で囲われた場所がある。少し窪んでいる部分が入口のようだ。早速、近付いてみる。
一歩中に入る。
一礼して、顔を上げると。
見えたのは……。
──しめ縄が施された石の祠
石祠には「享保七歳(1722)寅七月吉日」という日付が刻まれているそうだ。
社が建つ前。
さらには、この石の祠が造られる前。
この地にあったのは「鶴姫の塚」だ。
鶴姫……その名前には何やら聞き覚えがある。
確か宇都宮鎮房の娘ではなかったか。黒田父子との和議の条件として、人質という名目で黒田氏側に身を置いた娘。まだうら若き14歳の少女だが、一説には長政に嫁いだとされている。
その「鶴姫の塚」から大蛇が這い出したという。
なるほど。それ故、宇賀神として祀られているのか。
時は、元禄15(1702)年4月。
『中津川由来記』によると。
其の長さ五尺余、あしは亀の如く、牙歯七、八分、耳は兎に似たり、髭は鯰の如し。両眼水晶に金箔をちりばめたるが如し。
(渡辺晴見 著『豊前地方誌』より一部抜粋)
鶴姫の塚より蛇が這い出てきたという。
蛇の長さは五尺余り。つまり1.5mほどの長さだろう。かなり大きい蛇だ。
さらに、謎の蛇はとんでもない特徴を持っていた。
蛇だが、亀のような足がある。
蛇だが、牙がある。
蛇だが、ウサギのような耳がある。
蛇だが、ナマズのようなひげがある。
そして、両眼に金の斑点のようなものがある。
なんとも摩訶不思議な生き物だ。
なんなら、足と耳と牙があるのなら、もう蛇ではないような気もするが。もちろん、当時の人々は大騒ぎ。そんな大蛇を確認しに来た役人は、木村文兵衛という男に命じて、鉄砲で大蛇を撃ち殺させたという(詳細については諸説あり)。その後、殺された大蛇は塩漬けされ、桐の箱に入れて江戸に送られたとか。
そして、江戸で。
この塩漬けの大蛇を見たのが、先ほどからご登場の「小笠原長円」。
ははーん。ここで繋がるワケか。
彼も最初は暢気なもので。
蛇に足があることを初めて知ったなどと話していたようだ。
だが、様子が急変。
頭寒発熱胸さわぎ、手をあげ足を擲(なげう)ち狂妄戯言(うわごと)し玉い、我はこれ城井の娘なり、咎なき身を殺されて今におもいの晴れがたく、長き恨を成ぞかし。父鎮房おなじく討死の諸家中も皆怨念のつもり来て、城主に恨み申す也と歯がみしてこそ宣いけり。
(同上より一部抜粋)
突然、何者かに憑依された小笠原長円。
そして、彼の口から吐き出された言葉が、なんと「宇都宮氏一族の怨念」だったのだ。
我は宇都宮鎮房の娘。父と同じく討ち死にした家臣たちも皆、怨念がある。本来ならば謀殺した黒田父子に対してなのだろうが、ここでは、現在の城主に恨みを申すとなっている。
これで合点がいった。
小笠原長円のいう「大いに感するところあり」は、この大蛇の事件を受けてのコトなのだろう。「城井大明神」を「城井大権現」に改め、鎮房の家臣らに稲荷大明神を勧請したのも、すべての始まりはこの大蛇の事件だったと考えられる。
それにしても、である。
この事態に慌てたのは、周囲にいた小笠原長円の近習たちだ。
城主の異変に対し、彼らは即刻、大蛇を中津へと送り返し、箱を墓に埋めたという。
その後、小笠原長円は回復。小さな社を建て、宇賀神を祀ったそうだ。そして、ご存知の通り、宇都宮氏一族の慰霊のために動くこととなる。
なお、大蛇を撃ち殺した文兵衛は、5日間血を吐いて死んだとされている(諸説あり)。
一方で、小笠原長円は回復したが、結果的には短命となった。享年38。
長円の次に家督を相続した子は、わずか6歳で死去。後継問題により、中津の小笠原家は所領没収となる。
そんな小笠原氏の次に中津城に入城したのが奥平氏。
やはり災いがあったのかと思いきや、まさかのご利益が。それがコチラ。
奥方に子無きを憂ひ、当社に祈願をこめられしに、不思議の霊験により、程なく奥方懐妊し、男子出生ありけれむ。奥方の信仰弥厚く時々侍女を参拝せしめしかば、爾来奥方付の女中等の渇仰する所となる。
(松山譲 著『城井・宇都宮氏の滅亡 : 黒田藩外史』より一部抜粋)
上記の通り、『城井神社の記』の附録である『宇賀神社の記』には、宇賀神社に祈願したところ懐妊したという話が書かれている。小笠原氏とは異なり、奥平氏には何も災いが起こらなかったようだ。
それでも、未だ残る1つの謎。
大蛇が這い出す前。
ここには「鶴姫の塚」が造られていた。
鶴姫とは、宇都宮鎮房の娘の名前だ。
最後に。
彼女に何があったのかを語らなければならないだろう。
本当に鶴姫は処刑されたのか
多くの人の「無念」の物語。
最後は、宇都宮鎮房の娘、鶴姫(千代姫とも)の話となる。
恐らく結末を予想されている方も多いだろう。
塚が建てられ、供養されているというコトは、意に沿わぬ最期だったのではないかと。
話を進める前に、少し場所を移動しよう。
宇賀貴船神社を抜けた裏側、堤防付近へと向かう。
着いてすぐに立て看板を発見。どうやらここが目当ての場所のようだ。
じつに快晴。
こんな天気の日に、河原はうってつけの場所である。川を見ながらゆっくりしたいという悠長な気持ちもあったのだが。何が起こったかを知って、一気に吹っ飛んだ。
人質となっていた鶴姫は、捕らえられ侍女13人とともに広津の千本松原で磔にされます。その亡骸は、村人によって造られた墓に埋葬されます。
(宇賀貴船神社の説明版より一部抜粋)
磔刑(たっけい)である。
場所は、山国川沿いの広津河原。ちょうど目の前に広がる河原付近である。
父の宇都宮鎮房のために、人質として中津城内にいた鶴姫。
人質は、その言葉通り、裏切りの代償として奪われる命だ。
一般的には、己を裏切ればこうなるぞと、見せしめのために人質を処刑する。
そういう意味では、争いが起これば、いつ何時、人質は処刑されてもおかしくはない。
ただ、今回は、宇都宮鎮房から何かを仕掛けたワケではない。
なんならほぼ丸腰で。鎮房は中津城へと入り、抵抗する隙もなくまんまと謀殺されたのだ。
そうであれば、周囲への見せしめは必要ないだろう。
だが、しかし。
黒田父子には忘れられない、いや、絶対に忘れてはならない一件がある。
秀吉から与えらえた豊前国の6郡。自領で起こった国人らの蜂起。
この蜂起の中心人物こそ、宇都宮鎮房その人である。
それも、タイミングが悪かった。
肥後国(熊本県)の所領を得た佐々成政(さっさなりまさ)が蜂起を起こされ、鎮圧する最中での出来事だった。対岸の火事を消すどころか、我が岸で火事が起こるとは。黒田孝高も想定せず。それは、赤っ恥と言ってもいいくらいの衝撃だったはずだ。
それだけでも面目丸つぶれなのに、である。
あろうことか、長政は宇都宮鎮房に大敗を喫し、さらに大事な家臣が多数討たれた。じつに黒田勢の討ち取られた首は約800級とも。この時、黒田氏の家臣らの首が街道にさらされたといわれている。
それこそ、黒田父子からすれば「無念」の一言。
自然の要塞のような城井谷(きいだに)は厄介だ。その事実を悟った今、黒田孝高に、もはや選択肢などなかったとも思える。鶴姫を人質に取り、その鶴姫を長政に嫁がせたとしても。宇都宮鎮房が絶対に裏切らない保証はない。裏切りの可能性をゼロにするには、未だ出ていない芽でもいち早く摘むしかない。
つまりは、宇都宮氏一族を一気に葬るのみ。
宇都宮鎮房のみならず。居城にいる父も、人質である朝房(ともふさ)と鶴姫も。すべてである。
それこそ、九州各地で起こった蜂起に関して、厳罰を命じていた豊臣秀吉の厳命にも合致する。
鎮圧のために九州入りしていた毛利軍団の1人、吉川広家への書状で「一揆勢を撫切にするよう申し付ける」としていた秀吉。まさしく宇都宮氏滅亡は黒田孝高だけでなく、豊臣秀吉の意向でもあったのだ。
そして、来るべき運命の日。
天正16(1587)年4月20日。
宇都宮鎮房を謀殺。
『黒田家譜』には、宇都宮鎮房が謀殺されたあとの出来事が少しだけ書かれている。
城井が館即時に攻やぶられ、妻子も皆とられ、忽(たちま)ちに彼地平ぎぬ。中務の父長甫は、豊後をさして落ゆかんとしけるが、追手をかけてからめとり殺されける。
(貝原益軒 編著『黒田家譜』より一部抜粋)
黒田長政は、鎮房謀殺の勢いそのままに、大平城の麓にある館へと一気に攻め入る。ここで、鎮房の父を殺害。妻子らは捕らえられたようだ。
なお、もう1人の人質であった嫡子の朝房は、どうなったのか。
城井を討ちたる事を、長政より孝高へ注進し給ひければ、城井彌三郎も肥後にて誅せられぬ。
(同上より一部抜粋)
当時、彼は黒田孝高と共に肥後国へ。豊前国にはいなかった。だが、鎮房殺害の知らせを受けた黒田勢に、朝房とその家臣らも殺されたとか。一説には、同じく肥後国へと派遣されていた秀吉の子飼いの戦国武将、加藤清正に殺されたとも。ただ、誰が殺したかは諸説あり、確かではない。
そして、鶴姫はというと。
城井が父子一族十三人、中津川に磔にぞかけられる。
(同上より一部抜粋)
どうやら処刑されたようだが、『黒田家譜』だけが「父子」となっており、男性を含んでいる。
だが、多くの書物では、ほぼ女性の処刑で一致している。人質として長政に嫁いだとされる鶴姫と侍女たち、もしくは鎮房の妻ともう1人の娘、そして侍女たち。このどちらかであろう。人数にしても16人や24人などまちまちで、磔刑のみならず火刑という記録もあり、詳細部分は定かではない。
ただ、慰霊の塚が造られていることから、この場所で何らかの処刑があったのは事実のようだ。
それにしても、やりきれない。
当時、鶴姫は中津城内にいたはずだ。
当然、父の鎮房の身に起こったことを知ったであろう。そして、このあと、自分の身に起こることも容易に想像できたはずだ。
『豊前宇都宮興亡史』によれば。
鶴姫は一室に閉じ込められ、窓の外で磔刑の柱を作る音を聞き、何の音かと訊いたという。自分が処刑される事実を知って、辞世の句を詠んだとされている。
なかなかに きい(城井)て果てなん 唐衣 たがためにおる はたものの音
(小川武志 著『豊前宇都宮興亡史』より一部抜粋)
「聞いて果てん」と「城井で果てる」を掛けている。また、「磔(はたもの)」と布織りの「機(はた)もの」を掛けており、諦めにも似た心情を表している句だ。
自害したという説もあるようだが、多くの書物では処刑されたとなっている。
もし、この場所で。
鶴姫が本当に処刑されたなら。
遠くに目をやると。
城が見える。
中津城だ。
父親が謀殺された城を見ながら命を落とす。
これほど無念なことはないだろう。
無念が怨念へ。怨念が大蛇の化身となる。
嘘でも誇張でもなく。あながちこれが真実なのかもしれない。
今再び。
彼方の中津城をしっかりと目に焼き付けた。
こうして、長時間にわたる取材を終えたのである。
取材後記
今回はこれで終わるのかい?
それは、あまりにも無念だろうよ、ダイソンよ。
そんな声が聞こえてきそうである。
確かに無念だ。
宇都宮鎮房をはじめとして、父や息子、娘、家臣らの命が奪われた。
宇都宮氏一族の滅亡は、まさしく、やりきれない気持ちになる。
だが、しかし。
ここにきての話だが。
本当に宇都宮氏一族は滅亡したのだろうか。
まず、朝房の妻。当時、彼女は懐妊していたという。
それもあってか、黒田勢に館を攻められた際、侍女が身代わりを申し出たようだ。こうして、朝房の妻は峰伝いに「彦山(福岡県田川郡)」に逃れることができたという。この彦山だが、修験道の霊峰で立ち入ることができない山。さらに彦山の座主は、朝房の妻にとって兄の子。つまり姪という間柄だったとか。こうして朝房の妻は山伏に守られながら移動し、無事に男児を出産。子の名は「末房」という。
のちに、天下人が交代。
徳川の世となり、なんと末房は徳川家康に拝謁することができたそうだ。
家康は、そんな末房に「宇都宮朝末(ともすえ)」という名に改めさせたとか。そして、朝末の子、孫らは、代々、福井藩に仕えたという。
つまり、宇都宮家再興とはならなかったのだが、鎮房の子孫は残ったのである。
それだけではない。
じつは、鶴姫についても異説がある。
鶴姫の最期については諸説あることをご紹介した。
磔刑、火刑、自害だけではない。
先ほどの辞世の句を聞いた長政が助命したという説もあるのだ。
そもそも、黒田長政の生い立ちを考えれば。
彼自身が人質となっており、処刑される運命だった。
織田信長に反旗を翻した荒木村重。その説得に赴いた黒田孝高は捕らえられ、監禁される。戻りたくても戻れない。そんな状況にもかかわらず、周囲からは裏切ったと思われ、とうとう人質であった長政の処刑命令が出たのである。ただ、竹中重治のお陰で、運よく長政は命拾いをしたのである。
人質としての理不尽な運命。
それを痛いほど分かっているのは、誰でもない長政本人である。
磔刑を待つ鶴姫を自身と重ね合わせたと考えられなくもない。
『城井闘諍記』以外にも『豊州治覧』や『山田氏系譜』も助命された旨が書かれている。
『豊州治覧』には、鶴姫は城井の山中に「紫の庵」を結び、誰とも会わず一生を過ごしたとされている。『山田氏系譜』にも「紫の庵」を結んだとされているが、こちらは鶴姫が尼になったとも。
どちらにしろ、鶴姫は生き延びた可能性がある。
そうであるなら。
一族の菩提を弔い、一生を終えたと、そう思いたい。
最後に。
老いも若きも。
男も女も。
宇都宮鎮房も家臣も子どもらも。
黒田父子も、そして、まさかの豊臣秀吉に至るまで。
それぞれの立場で「無念」が交錯した一連の事件。
この「無念」という言葉は。
一般的に「悔しい」「後悔」という意味で使うコトが多い。
だが、じつはもう1つ、意味があるという。
仏教の言葉で、「心に何も念がない」というコト。
つまり、迷いの心を離れて無我の境地に入ることを指す。
どうか、彼らの心がみな穏やかであるように。
言葉の通り、無の境地で。
彼らが「無念」であるようにと願う。
撮影/大村健太
参考文献
『黒田如水伝』 金子堅太郎 著 博文館 1916年
『宇都宮落城記(美夜古郷土叢書 第1輯)』 玉江彦太郎 著 美夜古文化編集部 1955年
『扇城遺聞 : 郡誌後材』 赤松文二郎 編 名著出版 1974年
『黒田家譜』 貝原益軒 編著 歴史図書社 1980年8月
『豊前地方誌』 渡辺晴見 著 葦書房 1981年11月
『城井・宇都宮氏の滅亡 : 黒田藩外史』 松山譲 著 ライオンズマガジン社 1983年11月
『豊前史の一断面 : 黒田・宇都宮両氏の闘争史』 深川俊男 著 深川俊男 1984年
『豊前一戸城物語 : 戦国中間史』 溝淵芳正 編著 耶馬渓町郷土史研究会 1985年5月
『豊前宇都宮興亡史』 小川武志 著 海鳥社 1988年2月
『名将言行録』 岡谷繁実 著 講談社 2019年8月
基本情報
名称:宇賀貴船神社
住所:福岡県築上郡吉富町小犬丸16
公式webサイト:なし