おとぎ話に登場する竜宮城は、タイにヒラメが舞い踊り、豪勢な食事に美女たち、帰り際には玉手箱まで頂けて、そんな場所なら、ぜひ行ってみたい。とはいえ海に行く用事もなければ、亀を見かけることもないし、子どもたちが亀をいじめている場面にも遭遇したことがない。このままでは生きているうちに竜宮城へは行けそうにない……
そんな読者に朗報。たとえ漁師でなくても、亀を助けなくても、竜宮城へ行く方法があるのだ。今回は、水底世界へ行くのに有効と思われる方法を三つ紹介。竜宮城へ招いてもらえないなら、こっちから訪ねちゃえば?
それでも竜宮城へ行きたい? 水底世界へ行く前に知っておくべきこと
竜宮城。永遠の時が支配するこの水底世界は、中国の蓬莱島思想と日本のトコヨ(常世)の信仰が重なり合う場所だ。またの名を根の国、ニライカナイともいう。祖霊が暮らし、死霊が赴き、はからずもこの世の者を招いてくれることがある。
地上とのおおきな違いは、地上が人間の国であるのにたいし、こちらは神霊の世界であるということ。
水底世界へ訪問したことのある人間は、浦島太郎をはじめ何人かいるが、人間が気軽に出向いていい場所とは言い難い。神でもない存在が足を踏み入れたらどうなるか、結末はご存知のとおりだ。
ただ、扉は開かれている。つまり、行くかどうかはあなた次第、ってことになる。
いざ、竜宮城へ。海底へのアクセス方法、三選
水に関係する生きものを助ける
『浦島太郎』の昔話が証明しているように、竜宮城を訪ねるのにもっとも有効と思われる手段は、亀を助けることだろう。なにせ前例があるのだから「助けた亀に連れられて竜宮城へ」はまちがいない。
もっとも、助ける相手がかならずしも亀である必要はない。
絵本では救った亀の恩返しのかたちで竜宮城へ連れて行かれるが、『丹後国風土記』では釣り上げた大きな亀が人間の女となり、案内されてトコヨの国を訪ねている。はたまた『万葉集』では釣りの最中に海上に突如現れた海神の娘と夫婦の契りを結んでから、トコヨの国へ……という展開をみせる。
昔話を読み比べると、漁師自らトコヨの国へ押しかけるというケースはあまりみられない。なので海辺に着いたらまずは困っている海洋生物を探すか、沖へ出て釣り糸を垂らしながら珍しいものが引っかかるのを(亀でも人でも)気長に待ってみよう。
探しものを見つけに行く
『海幸山幸神話』では、漁師が友だちから借りた釣縄を失い、それを探しに島へ向かい、神に事情を話したところ家に招かれて歓迎されている。そのお宅の庭では、赤や白の美しい鳥たちが天へ昇っていくのを見ることができるという。神がいうには、鳥たちは人間たちが海の上から釣り上げている魚なのだとか。
この昔話から学べることはいくつかある。
ひとつは、水底世界にあるのは竜宮城だけではないということ。二つ目は、タイやヒラメでなく、鳥たちが舞っている場合もあるということ。そしてこれがいちばん重要なのだが、水底世界に招かれたことのある人は「探しもの」を見つけに行った先で、招かれたということ。
この物語の漁師が失ったのは釣縄だったが、縄で通行許可が下りるなら、釣りに関わる道具ならなんでもいい気がする。釣り針とか、釣り竿とか、船の一部を剥がして海に沈めるのもいいかもしれない。もちろん、それで船が沈みでもしたらほんとうにあの世に行くことになってしまうけれど。
植物を落としてみる
新潟県に伝わる昔話は、すこし珍しい水底訪問を語っている。
ある貧しい男が歳の暮に、柴薪を海に投げ入れると若い娘が現れて、竜宮に案内してくれたという。そのうえ大変な歓迎で、お土産に黄金の糞をする猫まで頂戴した。
海に投げ入れた「もの」が、花になっている地方もある。ある人は、花を差し上げたお礼として、乙姫さまに立派な御殿に招かれた。ほかにも一束の柴をのこらず水底に沈めた男が水から出てきた美女に、柴のお礼に立派なお屋敷に誘われた、なんて話も伝わる。
薪、花、柴は、水底世界を訪ねるための賄賂になる。
ただ、注意すべき点もある。その辺で集めた植物では乙姫さまから声はかからない、ということだ。そして植物を海へ投げ入れる日は、歳の暮でなくてはいけない。
昔話の主人公たちが投げ入れた植物は、じつは正月用に用意していたものだった。そして正月用であるからには、売れ残りや貰いものの植物ではいけない。棄ててもかまわない、不用のものではなく、あらかじめ神々に捧げるつもりで手に入れた貴重な植物を「ふいに」落としてしまった、という偶然を装う必要がある。そうすれば水神の感謝をうけ、歓迎され、気に入ってもらえれば、お土産をもらえるかもしれない。
乙姫さまに会う際の心得
たかが植物を投げ入れただけで水神の感謝を受けることができるなんて。と、思うかもしれないが、昔話の主人公たちが水中に投じた薪や花や柴は、どれもその人たちにとって大切なものだった。
柴刈りを生業にする者にとって柴は貴重な収入源だったろうし、釣縄を落とした漁師は明日の仕事を案じて頭を抱えたにちがいない。それは現代人が使用済みのプラスチックを海へ流すのとはわけがちがうのだ。
だから水底に沈められた物は、それが一束の柴であれ、くたびれた花であれ、乙姫さまを喜ばすのに充分に価値があった。なぜなら、神霊の住む清浄なる世界への無垢な捧げものだったからだ。
水底世界はこの世とは理のちがう場所であり、そこに棲む神もまたこの世のものではないのだから、地上とちがう時間枠で生きていてもおかしくない。竜宮城に流れている水が不老長寿の水だと聞いても、決して驚かないだろう。
そんな場所に暮らしているのだと思うと、乙姫さまがすこし恐ろしく感じられてくる。若い娘だ、美女だというけれど、この世の者ではないのだ。運良く竜宮城にたどり着いても、水底が神聖な場所であり、乙姫さまもまた水底の神霊であることを忘れてはいけない。
竜宮城って、こんな場所
生命の根源であり、豊穣の神の支配する竜宮を、人びとはさまざまなイメージで描いてきた。ここから魚や貝がもたらされるとか、財宝や呪宝が眠っているとか、食べても減らない餅があるとか、玉手箱のように、百年の歳月をたった一日に縮めてしまうことができるとか。
青森県に伝わる浦島太郎が招かれた竜宮城は、植えた稲や粟がみるみる穂をだして成長する不思議な時を刻む国だった。浦島太郎は、そこでたった三日過ごしただけだが、地上では三百年も過ぎていたという。
ここでは、地上の常識は通用しない。だから、来た道を帰れるとはかぎらないし、たとえ帰ることができても、地上での生活を約束してはくれない。ここは現世とは異なる時間が支配する世界なのだということを忘れないように。
おわりに
浦島太郎は海から竜宮へ向かったが、水底世界への道は、海だけではない。山村近くの淵や湖、沼の底、井戸にもまたトコヨの国があると信じられてきた。地上と異界。二つの世界を結びつけている水場は、はるか果ての海の世界などではなくて、私たちの暮らしのすぐそばで口を広げている。
水が神聖な場となるのは、それが人にとって不可欠だからだ。人間は水なくして生きてはいけない。昔話の語られる時代には、水はことのほか大切だった。そのせいか、竜宮説話にはいつも水が流れている。
かつても今も、水底世界は人間にとって、もっとも身近な異界である。だからこそ水神を相手にするなら善意をもって、慎み深く行動したいものだ。そうすれば竜宮城へ行く機会が巡ってくる、かもしれない。
【参考文献】
伊藤清司「花咲爺の源流 日本と中国の説話比較」ジャパン・パブリッシャーズ、1978年